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1バギオでの日本人の歴史

2004年5月4〜24日フィリピンのバギオに滞在した。滞在中現地在住の斎木氏と山田氏に大変お世話になった。以下数回に亘ってバギオでの思い出をご報告したい。話の中味は斎木・山田両氏の教えに負うところ大であることを付け加え、感謝の意を表したい。

1バギオでの日本人の歴史
 フィリピンのバギオといってもご存知ない人が多いと思うので少し紹介したい。バギオはルソン島のほぼ中央でマニラの北約250Kmに位置する。標高は1400m〜1700mの高原の町で人口は23万人と言われている。標高が高いので暑いフィリピンにあって一年を通して最高気温が26℃を超えることはなく絶好の避暑地となっている。特に乾季の12月から5月は湿度も低く大勢の観光客や避暑客が押し寄せる。フィリピン政府は夏の間暑いマニラを避けここバギオに政府を移した時期もあったとのこと。
 この町と日本人の関りは非常に深いものがあり、その興亡の歴史は涙なしには語れない。今でこそバギオに住む日本人は数十人しかいないが、最盛期には目抜き通りの商店は数軒を除き全て日本人が経営していたらしい。いまは逆に日本人経営の商店は1軒しかない。
 フィリピンの歴史はマゼランが1521年にセブ島に上陸して以後約350年間スペインが支配し、1898年アメリカがスペインを破ってフィリピンを僅か$2000万で買い受け以後1946年に独立するまでアメリカの植民地であった。アメリカはマニラの熱さに耐え兼ね避暑地をバギオの地に求め開発に取り掛かった。しかし道路建設で難渋したアメリカは日本人の勤勉さに着目し、日本からの移民にその建設を託した。移民日本人は劣悪な労働条件のもと峻烈を極める自然と闘い多くの犠牲者を出しながらようやく1903年に完成した。道路の名前は建設責任者の名前を取ってケノン道路と呼ばれているが現地では日本人が造った道路と認識されているとのこと。
 この建設に従事した日本人の一部が現地に残ってフィリピン人と結婚し勤勉さを発揮して事業に成功した人も多く次第に日本人の地位が向上し第二次大戦前が繁栄のピークであった。この我が世の春は日本軍のフィリピン侵攻と敗北により暗転する。侵攻した日本軍の残虐行為・敗退に際して村々を焼き払ったことへの怨念は凄まじく、日本人及びその子孫は現地人からの襲撃に晒された。彼等は山奥に逃げ込んで常に生命の危険に怯えながら飲まず食わずの生活を強いられた。その悲惨な生活は戦後も続き1972年シスター海野が命を張っての救出活動を始めるまで続いた。
 シスター海野は1973年に北ルソン比日友交協会を設立、1974年奨学金制度を始めるなど日系人の地位向上に尽力した。一方ではフィリピン人を貧困から救うため1983年に農業協同組合を創設するなどフィリピン人の生活向上にも多大の尽力をし、バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を贈られるまでになった。
 1989年シスター海野が死去した後、その活動はカルロス寺岡・寺岡マリエの兄妹、尾辻ヨシの各氏に引き継がれ今日に至っている。寺岡兄妹や尾辻さんの辿られた悲惨な過去と日系人発展に尽くされている現在の姿には頭が下がるものがあり、比日両国民から尊敬を集めているのも当然のことであろう。

以上述べた状況は下記の本に詳しいのでご興味のある方はご一読下さい。
・「バギオの虹」鴨野守著 アートビレッジ発行
またカルロス寺岡氏の活動は昨年報道されたNHK日曜スペシャル「日系人の誇りを守りたい(カルロス寺岡の闘い)」に詳しい。
更にシスター海野については暮らしの映画社が制作した「健全映画鑑賞会創立25周年記念作品」に彼女の貴重な記録が残されている。
この2本のビデオは山田氏のご好意でダビングし持ち帰ったので機会を作って見て頂きたいと思っている。

少年探偵団 神原克收 * バギオ通信2004 * 22:07 * comments(0) * trackbacks(0)

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